黄泉比良坂であの世への境界を彷徨う~初夏出雲行(36)←(承前)



黄泉比良坂を出発し、宍道湖から流れる大橋川に架かった中海大橋を越えて、大海崎町から中海の水上をつなぐ県道338号線へと入ります。
Wikipedia/中海

この338号線は、中海締切堤防が路線の大半を占めており、大根(だいこん)島と江島を経由して、美保関町下宇部尾へと至ります。
Wikipedia/島根県道338号美保関八束松江線




大根島の北岸を進むと、〝ベタ踏み坂〟で有名な江島大橋が見えて来ました。

向こうに見える山波は島根半島で、山頂に建つドームなど建造物は、航空自衛隊高尾山分屯基地のレーダーサイト(軍事用レーダー地上固定局)ということです。


そこで、私たちが車で走ったルート、黄泉比良坂→大根島→江島→弓ヶ浜半島/境港→美保館は、このようなことです。


この地図で、大きな大根島の右上にある四角い島が江島なのですが、盲腸のように江島から北西へルートが出ているのは、江島で右折し338号を離脱して江島大橋から弓ヶ浜半島へ向かわなければならなかったところを、間違ってそのまま直進してしまったからです(泣)

そうすると、道路が細長い堤防の上を走っているため左右に逃げ場がなく、なかなかUターンできないまま下宇部尾の直前まで行ってしまいました。




けれども道を間違えたお陰で、陽光に輝く素晴らしい中海を目の当たりにできました。
青空がとても高く、広々とした絶景です。


なお今回、全く余裕がなかったため、経由した大根島について完全にノーマークだったのですが、後で調べてみたところ、中々に魅力的な島のようです。

大根島と江島は同一の火山島で、今から約19万年前、噴火によってできたとのこと。
そのため、大根島には国指定の特別天然記念物「大根島溶岩隧道」があるそうです。
また全国一の牡丹産地であり、雲州人参では国内3大産地のひとつです。

出雲風土記には、大根島は「たこ島」、江島は「むかで島」として記載されています。
杵築の御崎にいた「たこ」が天羽々鷲(羽の広い大鷲)に捕らえられ、この大根島へ飛んで来たので「たこ島」、その「たこ」が「むかで」をくわえて来た江島が「むかで島」、とのこと(笑)

松江観光協会/八束町支部/大根島
Wikipedia/大根島
Wikipedia/江島(島根県)




江島まで引き返して、これが〝ベタ踏み坂〟。

もっと望遠のレンズでアングルも工夫すれば、それらしく撮れたのでしょうけれど、ちょっとショボイ感じになってしまいました。

Wikipedia/江島大橋




近づいてから、もう1枚。
もちろん、結構な傾斜ですけれど、↓このイメージ通り、というわけにはいきません(苦笑)





弓ヶ浜半島の境港市街地を抜けて、境水道大橋で島根半島へと渡ります。
Wikipedia/境水道
Wikipedia/境水道大橋

目の前の山頂には、高尾山分屯基地のレーダーが聳えます。



ここで少し話しは変わりますが、その境港を擁する弓ヶ浜半島について気付いたことをお伝えします。※以下の太字は全て私

Wikipedia/弓ヶ浜半島
弓ヶ浜半島は鳥取県西端部から北西に向かって細長く延びた全長約17km、幅約4kmの砂嘴で、日本海(美保湾)と中海を分け、先端部は島根半島との間に境水道を形成している。
全体的に標高が低くなだらかで、山がほとんど存在しない。日本海側は長い砂浜がある。
『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』の逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されていることから、古くは島であったと考えられている。

ここで気になるのが「夜見」という地名ですね。
「夜見」は「黄泉」に通じるのではないか、と思ってしまいます。

しかしながら、Wikipedia/黄泉/語源によりますと、
黄泉とは、大和言葉の「ヨミ」に、漢語の「黄泉」の字を充てたものである。漢語で「黄泉」は「地下の泉」を意味し、それが転じて地下の死者の世界の意味となった。 語源には以下のような諸説がある。
1.「夜」説。夜方(よも)、夜見(よみ)の意味、あるいは「夜迷い」の訛りともいう[1]。
ということですが、その脚注[1]で、
[1]出雲地方に「夜見」とつく地名があるのでこれにこじつける説もあるが、黄泉のヨは上代特殊仮名遣いでは乙類なので「夜」(甲類のヨ)ではありえず、現在では完全に否定されている。
とのことです。
何だかよく分からないですね~。

そもそも、黄泉のヨを上代特殊仮名遣いで乙類と判別した典拠とは、何なんでしょうか?


ともあれ、『出雲国風土記』荻原千鶴(講談社/1999年)に所収の「出雲国風土記地図」を引用しますので、ご参照ください。
※●揖夜神社の赤字、夜見島(伯耆国)と粟島の赤い地色は、私が入れています

『出雲国風土記』荻原千鶴(講談社/1999年)「出雲国風土記地図」

『出雲国風土記』荻原千鶴(講談社/1999年)「出雲国風土記地図」アップ


そこで、もう少し調べてみましたら、↓このような問答があり、
教えて!goo/「黄泉」とかいて「よみ」と呼ぶのは
ここで『暮らしのことば 語源辞典』山口佳紀 編(講談社/1998年)が紹介されていましたので、私も手に入れて読んでみました。
黄泉の国(よみのくに)
人が死んでから、その魂の行く所。あの世。古くはヨモツクニといった。ヨモはヨミの母音交替形。ツは「の」の意を表す古い連体助詞であるから、ヨモツクニとはヨミノクニと同義である。問題はヨモの語源であるが、よくわかっていない。一説に、ヨモはヤマ(山)の母音交替形で、山岳を他界とする古代人の観念に基づいて成立した語とする。
 (中略)
古代中国では、地下の泉、死者の霊魂の行くところを「黄泉(こうせん)」といった。「黄泉(こうせん)」はのちに、インド伝来の仏教の地獄観と融合して、閻魔王の住む地獄道の世界(冥途)が成立した。日本でヨミを「黄泉」と書くのは、中国の「黄泉(こうせん)」に日本語のヨミを結びつけたものである。
「問題はヨモの語源であるが、よくわかっていない」とありますけれど、そこが知りたいんですよねぇ(泣)
「ヨ」が乙類で書かれた「日本語のヨミ」とは何なのか、分かりませんし…
ただ、ヨモ=ヤマ(山)なら山岳を他界とする古代人の観念、という一説には興味が湧きます。


まあ、あまりに専門的なことかと思いますので手に負えませんけれど、もうちょっと調べてみましたら、このような見解もありました。


出雲と大和のあけぼの―丹後風土記の世界』斎木雲州(大元出版/2007年)
Google ブックス/出雲と大和のあけぼの: 丹後風土記の世界/50p~51p
出雲風土記の国引きの記述は、次のようになっている。
「国来クニコ」と引っぱってきて、置いた領地が三穂の崎である。つかんで引っぱった綱は夜見(黄泉)の島である。綱を結ぶために立てた杭は、伯警の国にある火神岳(大山)そのものである。
奈良時代の「夜見の島」は、日野川と伯太川・飯梨川が運んだ土砂が埋まり、陸とつながって、今は弓ケ浜半島になっている。その西岸にある米子水鳥公園の隣に、粟烏がある。
そこには莱の名前のような、まるい小さな丘がある。丘の北側には、洞窟がある。「古代は神の宿る小島であったが、江戸末期に埋立てられ陸続きになった」と書かれた案内板が、境内に立っている。そして、もとの島全体が粟嶋神社になっている。
丘の急な長い階段を昇ると、頂上に社がある。祭神は少名彦命で、病気平癒や子授けの神とされている。社の後ろからの眺めが素晴らしい。古代の数々の歴史を秘めた主の海(中海)が一望のもとに見える。
伯香国風土記逸文に、次の記述がある。
相見の郡。郡家の西北の方面に、絵戸の里がある。粟島がある。少日子命(事代主命)が粟をお蒔きになったが、実った穂が垂れていた。その穂に乗ったら、はじき飛ばされて常世の国に着きました。それで、その島は粟島という名前が付きました。
相見の郡は、鳥取県南部町の会見で、その北に米子市の粟島がある。「常世の国に着く」ということは、あの世に去ったことを意味する。この史実の影響で、粟島の隣にあった大きな島が夜見の島と呼ばれるようになった。「夜見の国」とは、中国語の黄泉(死の世界)のことである。


そして、こちら↓でも全く同様です。

列島縦断 地名逍遥』谷川健一(冨山房インターナショナル/2010年)
Google ブックス/列島縦断地名逍遥/400p
美保湾と中海をくぎる夜見ケ浜は、今半島状をなしているが、『出雲国風土記』時代には夜見島と呼ばれていたことが、国引きの章から分かる。すなわち能登の珠洲の岬を引いてきて、出雲の三保の崎とつなぎ合わせたときに、夜見島を引き綱としたというのである。長さ五里、幅十里にみたない島を綱にたとえたのは適切である。島の形が弓なりなので後世には弓が浜ともいったが、これは夜見島を訛ったものである。
夜見島はおそらく太古においては、黄泉島、すなわち死者のゆく島ではなかったか。山陰海岸には砂丘葬あるいは水葬の痕跡がある。『伯耆国風土記」逸文には、郡家の西北の方角に余戸の里があり、そこに粟嶋があった。少名彦の命が粟をまいて、粟の穂にのり、弾かれて常世の国に渡った。だから粟島という、とある。米子市に彦名の地名があり、彦名の中に粟島がある。今は陵地の丘となっているが、古代には海中の孤島であって、出雲国意宇郡に属していたと思われると『地名辞書」は述べている。
古代においては常世の国はそう遠くに想定されていたとも思えないから、少彦名命は、粟島から夜見島(黄泉島)に渡ったと考えられなくもない。さて、天平時代のあと、日野川の押し出す上砂のため、砂嘴がのびて、夜見島が半島となると、粟島も半島の一部となってしまった。
ちなみに少彦名命が粟茎に弾かれて常世国に渡った話は『日本書紀』(神代上)にも伝えているが、『古事記』によると少彦名は酒の神であり、その酒は粟から作ったものと思われるから粟との関係はふかい。


これら2人の著者は、もちろん上代特殊仮名遣い等に精通した研究者の筈ですし、特に谷川健一は古代の日本文学や民俗学、そして地名の巨匠ですから、そのような基本中の基本で判断を誤る可能性はとても低いように思われます。

何よりこれらの著書では、おそらく優秀な編集者が担当しているでしょうから、もし一般に黄泉=夜見がこじつけで完全に否定されている説ならば、そのまんまスルーして刊行されることも考えにくいかと思います。

そもそもWikipedia の記事は、その便利さに甘え、よく使っている自分が言うのも何なんですけれど、決して鵜呑みにできませんし(苦笑)

このようなことで、やはりどうしても「黄泉」と「夜見」の関係が気になりますから、今後もう少し調べてみようと思っています。
先の黄泉がえりの聖地に神留る揖夜神社~初夏出雲行(35)で考えてみた、もしかして出雲では往古に東方が「あの世」と意識されていたかも、という件を検証したいと思いますので。




さて、高尾山の軍事レーダーに話しを戻します。

これらレーダーが、半島や大陸からの攻撃を監視している、ということかと思いますけれど、それはすなわち、この地が敵国にとって戦闘開始時の重要な攻撃目標になっている、ということでもあります。

そのためこのような市街地のすぐ側でなく、できれば無人の孤島にでも建設できなかったものかと思えてなりません。
まことに剣呑な風景です。

さらに同じ島根半島内の近くには「日本で唯一、県庁所在地に立地する原子力発電所」である島根原発もあり、まるで自ら、ミサイルをこの松江へ撃ち込んで下さいと頼んでいるような配置ですから、慄然としてしまいます…




とかなんとか思いを巡らすうちに、美保関漁港の眼前に建つ美保館に到着です。
港の岸壁には、ツバメが行き交っていました。

旅館 美保館ホームページ






水たまりの上には虫が飛んでいるのでしょうか。
ツバメたちは気ぜわしく乱れ飛び、エサ集めに懸命のようでした。






そして平日のお陰か、旅館の宿泊客には余裕のある様子で、新館最上階のお部屋に案内して頂きました。

窓からは壮麗な美保湾の景色が広がります。
お試しに、いつもより大きい一杯一杯のサイズで写真を貼ってみました。

湾の向こうには伯耆富士とも呼ばれる大山が聳え、空は青く雲が雄大に舞っています。




美保関漁港。
すでに手前の水揚げ場を、夕陽による山の影が覆っています。




美保関漁港の右手側。
こちらはもう夕暮れになっています。

時刻は18:10ごろ。
ここからようやく展望大浴場で疲れを癒やし、海の幸をたっぷりと頂いて、初夏出雲行2日目の終了となりました。


翌朝は、島根半島東端の美保関灯台で朝陽を遙拝し、初夏出雲行の最終日が始まります。


※実のところ、初夏出雲行3日目の準備が全然できていません(泣)
そこで次の更新がいつ頃になるか分かりませんけれど、大きく遅れることになると思います。
ゴメンナサイ…


(つづく)




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村崎一徳による神社、お寺、お城などの写真や風景写真など旅行写真まとめ

中海を渡り夜見の弓ヶ浜半島から美保関へ〜初夏出雲行(37)

2016.02.16

中海を渡り夜見の弓ヶ浜半島から美保関へ〜初夏出雲行(37) はコメントを受け付けていません。


黄泉比良坂であの世への境界を彷徨う~初夏出雲行(36)←(承前)



黄泉比良坂を出発し、宍道湖から流れる大橋川に架かった中海大橋を越えて、大海崎町から中海の水上をつなぐ県道338号線へと入ります。

この338号線は、中海締切堤防が路線の大半を占めており、大根(だいこん)島と江島を経由して、美保関町下宇部尾へと至ります。




大根島の北岸を進むと、〝ベタ踏み坂〟で有名な江島大橋が見えて来ました。

向こうに見える山波は島根半島で、山頂に建つドームなど建造物は、航空自衛隊高尾山分屯基地のレーダーサイト(軍事用レーダー地上固定局)ということです。


そこで、私たちが車で走ったルート、黄泉比良坂→大根島→江島→弓ヶ浜半島/境港→美保館は、このようなことです。


この地図で、大きな大根島の右上にある四角い島が江島なのですが、盲腸のように江島から北西へルートが出ているのは、江島で右折し338号を離脱して江島大橋から弓ヶ浜半島へ向かわなければならなかったところを、間違ってそのまま直進してしまったからです(泣)

そうすると、道路が細長い堤防の上を走っているため左右に逃げ場がなく、なかなかUターンできないまま下宇部尾の直前まで行ってしまいました。




けれども道を間違えたお陰で、陽光に輝く素晴らしい中海を目の当たりにできました。
青空がとても高く、広々とした絶景です。


なお今回、全く余裕がなかったため、経由した大根島について完全にノーマークだったのですが、後で調べてみたところ、中々に魅力的な島のようです。

大根島と江島は同一の火山島で、今から約19万年前、噴火によってできたとのこと。
そのため、大根島には国指定の特別天然記念物「大根島溶岩隧道」があるそうです。
また全国一の牡丹産地であり、雲州人参では国内3大産地のひとつです。

出雲風土記には、大根島は「たこ島」、江島は「むかで島」として記載されています。
杵築の御崎にいた「たこ」が天羽々鷲(羽の広い大鷲)に捕らえられ、この大根島へ飛んで来たので「たこ島」、その「たこ」が「むかで」をくわえて来た江島が「むかで島」、とのこと(笑)




江島まで引き返して、これが〝ベタ踏み坂〟。

もっと望遠のレンズでアングルも工夫すれば、それらしく撮れたのでしょうけれど、ちょっとショボイ感じになってしまいました。





近づいてから、もう1枚。
もちろん、結構な傾斜ですけれど、↓このイメージ通り、というわけにはいきません(苦笑)





弓ヶ浜半島の境港市街地を抜けて、境水道大橋で島根半島へと渡ります。

目の前の山頂には、高尾山分屯基地のレーダーが聳えます。



ここで少し話しは変わりますが、その境港を擁する弓ヶ浜半島について気付いたことをお伝えします。※以下の太字は全て私
弓ヶ浜半島は鳥取県西端部から北西に向かって細長く延びた全長約17km、幅約4kmの砂嘴で、日本海(美保湾)と中海を分け、先端部は島根半島との間に境水道を形成している。
全体的に標高が低くなだらかで、山がほとんど存在しない。日本海側は長い砂浜がある。
『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』の逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されていることから、古くは島であったと考えられている。

ここで気になるのが「夜見」という地名ですね。
「夜見」は「黄泉」に通じるのではないか、と思ってしまいます。

しかしながら、Wikipedia/黄泉/語源によりますと、
黄泉とは、大和言葉の「ヨミ」に、漢語の「黄泉」の字を充てたものである。漢語で「黄泉」は「地下の泉」を意味し、それが転じて地下の死者の世界の意味となった。 語源には以下のような諸説がある。
1.「夜」説。夜方(よも)、夜見(よみ)の意味、あるいは「夜迷い」の訛りともいう[1]。
ということですが、その脚注[1]で、
[1]出雲地方に「夜見」とつく地名があるのでこれにこじつける説もあるが、黄泉のヨは上代特殊仮名遣いでは乙類なので「夜」(甲類のヨ)ではありえず、現在では完全に否定されている。
とのことです。
何だかよく分からないですね~。

そもそも、黄泉のヨを上代特殊仮名遣いで乙類と判別した典拠とは、何なんでしょうか?


ともあれ、『出雲国風土記』荻原千鶴(講談社/1999年)に所収の「出雲国風土記地図」を引用しますので、ご参照ください。
※●揖夜神社の赤字、夜見島(伯耆国)と粟島の赤い地色は、私が入れています

そこで、もう少し調べてみましたら、↓このような問答があり、
ここで『暮らしのことば 語源辞典』山口佳紀 編(講談社/1998年)が紹介されていましたので、私も手に入れて読んでみました。
黄泉の国(よみのくに)
人が死んでから、その魂の行く所。あの世。古くはヨモツクニといった。ヨモはヨミの母音交替形。ツは「の」の意を表す古い連体助詞であるから、ヨモツクニとはヨミノクニと同義である。問題はヨモの語源であるが、よくわかっていない。一説に、ヨモはヤマ(山)の母音交替形で、山岳を他界とする古代人の観念に基づいて成立した語とする。
 (中略)
古代中国では、地下の泉、死者の霊魂の行くところを「黄泉(こうせん)」といった。「黄泉(こうせん)」はのちに、インド伝来の仏教の地獄観と融合して、閻魔王の住む地獄道の世界(冥途)が成立した。日本でヨミを「黄泉」と書くのは、中国の「黄泉(こうせん)」に日本語のヨミを結びつけたものである。
「問題はヨモの語源であるが、よくわかっていない」とありますけれど、そこが知りたいんですよねぇ(泣)
「ヨ」が乙類で書かれた「日本語のヨミ」とは何なのか、分かりませんし…
ただ、ヨモ=ヤマ(山)なら山岳を他界とする古代人の観念、という一説には興味が湧きます。


まあ、あまりに専門的なことかと思いますので手に負えませんけれど、もうちょっと調べてみましたら、このような見解もありました。


出雲と大和のあけぼの―丹後風土記の世界』斎木雲州(大元出版/2007年)
出雲風土記の国引きの記述は、次のようになっている。
「国来クニコ」と引っぱってきて、置いた領地が三穂の崎である。つかんで引っぱった綱は夜見(黄泉)の島である。綱を結ぶために立てた杭は、伯警の国にある火神岳(大山)そのものである。
奈良時代の「夜見の島」は、日野川と伯太川・飯梨川が運んだ土砂が埋まり、陸とつながって、今は弓ケ浜半島になっている。その西岸にある米子水鳥公園の隣に、粟烏がある。
そこには莱の名前のような、まるい小さな丘がある。丘の北側には、洞窟がある。「古代は神の宿る小島であったが、江戸末期に埋立てられ陸続きになった」と書かれた案内板が、境内に立っている。そして、もとの島全体が粟嶋神社になっている。
丘の急な長い階段を昇ると、頂上に社がある。祭神は少名彦命で、病気平癒や子授けの神とされている。社の後ろからの眺めが素晴らしい。古代の数々の歴史を秘めた主の海(中海)が一望のもとに見える。
伯香国風土記逸文に、次の記述がある。
相見の郡。郡家の西北の方面に、絵戸の里がある。粟島がある。少日子命(事代主命)が粟をお蒔きになったが、実った穂が垂れていた。その穂に乗ったら、はじき飛ばされて常世の国に着きました。それで、その島は粟島という名前が付きました。
相見の郡は、鳥取県南部町の会見で、その北に米子市の粟島がある。「常世の国に着く」ということは、あの世に去ったことを意味する。この史実の影響で、粟島の隣にあった大きな島が夜見の島と呼ばれるようになった。「夜見の国」とは、中国語の黄泉(死の世界)のことである。


そして、こちら↓でも全く同様です。

列島縦断 地名逍遥』谷川健一(冨山房インターナショナル/2010年)
美保湾と中海をくぎる夜見ケ浜は、今半島状をなしているが、『出雲国風土記』時代には夜見島と呼ばれていたことが、国引きの章から分かる。すなわち能登の珠洲の岬を引いてきて、出雲の三保の崎とつなぎ合わせたときに、夜見島を引き綱としたというのである。長さ五里、幅十里にみたない島を綱にたとえたのは適切である。島の形が弓なりなので後世には弓が浜ともいったが、これは夜見島を訛ったものである。
夜見島はおそらく太古においては、黄泉島、すなわち死者のゆく島ではなかったか。山陰海岸には砂丘葬あるいは水葬の痕跡がある。『伯耆国風土記」逸文には、郡家の西北の方角に余戸の里があり、そこに粟嶋があった。少名彦の命が粟をまいて、粟の穂にのり、弾かれて常世の国に渡った。だから粟島という、とある。米子市に彦名の地名があり、彦名の中に粟島がある。今は陵地の丘となっているが、古代には海中の孤島であって、出雲国意宇郡に属していたと思われると『地名辞書」は述べている。
古代においては常世の国はそう遠くに想定されていたとも思えないから、少彦名命は、粟島から夜見島(黄泉島)に渡ったと考えられなくもない。さて、天平時代のあと、日野川の押し出す上砂のため、砂嘴がのびて、夜見島が半島となると、粟島も半島の一部となってしまった。
ちなみに少彦名命が粟茎に弾かれて常世国に渡った話は『日本書紀』(神代上)にも伝えているが、『古事記』によると少彦名は酒の神であり、その酒は粟から作ったものと思われるから粟との関係はふかい。


これら2人の著者は、もちろん上代特殊仮名遣い等に精通した研究者の筈ですし、特に谷川健一は古代の日本文学や民俗学、そして地名の巨匠ですから、そのような基本中の基本で判断を誤る可能性はとても低いように思われます。

何よりこれらの著書では、おそらく優秀な編集者が担当しているでしょうから、もし一般に黄泉=夜見がこじつけで完全に否定されている説ならば、そのまんまスルーして刊行されることも考えにくいかと思います。

そもそもWikipedia の記事は、その便利さに甘え、よく使っている自分が言うのも何なんですけれど、決して鵜呑みにできませんし(苦笑)

このようなことで、やはりどうしても「黄泉」と「夜見」の関係が気になりますから、今後もう少し調べてみようと思っています。
先の黄泉がえりの聖地に神留る揖夜神社~初夏出雲行(35)で考えてみた、もしかして出雲では往古に東方が「あの世」と意識されていたかも、という件を検証したいと思いますので。




さて、高尾山の軍事レーダーに話しを戻します。

これらレーダーが、半島や大陸からの攻撃を監視している、ということかと思いますけれど、それはすなわち、この地が敵国にとって戦闘開始時の重要な攻撃目標になっている、ということでもあります。

そのためこのような市街地のすぐ側でなく、できれば無人の孤島にでも建設できなかったものかと思えてなりません。
まことに剣呑な風景です。

さらに同じ島根半島内の近くには「日本で唯一、県庁所在地に立地する原子力発電所」である島根原発もあり、まるで自ら、ミサイルをこの松江へ撃ち込んで下さいと頼んでいるような配置ですから、慄然としてしまいます…




とかなんとか思いを巡らすうちに、美保関漁港の眼前に建つ美保館に到着です。
港の岸壁には、ツバメが行き交っていました。







水たまりの上には虫が飛んでいるのでしょうか。
ツバメたちは気ぜわしく乱れ飛び、エサ集めに懸命のようでした。






そして平日のお陰か、旅館の宿泊客には余裕のある様子で、新館最上階のお部屋に案内して頂きました。

窓からは壮麗な美保湾の景色が広がります。
お試しに、いつもより大きい一杯一杯のサイズで写真を貼ってみました。

湾の向こうには伯耆富士とも呼ばれる大山が聳え、空は青く雲が雄大に舞っています。




美保関漁港。
すでに手前の水揚げ場を、夕陽による山の影が覆っています。




美保関漁港の右手側。
こちらはもう夕暮れになっています。

時刻は18:10ごろ。
ここからようやく展望大浴場で疲れを癒やし、海の幸をたっぷりと頂いて、初夏出雲行2日目の終了となりました。


翌朝は、島根半島東端の美保関灯台で朝陽を遙拝し、初夏出雲行の最終日が始まります。


※実のところ、初夏出雲行3日目の準備が全然できていません(泣)
そこで次の更新がいつ頃になるか分かりませんけれど、大きく遅れることになると思います。
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村崎一徳について
わたくし村崎一徳は、
お寺やお城、神社、昔の住宅、教会、宮殿、寺院、修道院、御所、駅、駅舎、公園、庭園、空港、劇場、劇場・映画館・演芸場・観覧場・公会堂・集会場、ホテル・旅館、工場、下宿・寄宿舎、倉庫、博物館・美術館・図書館などの建造物や工芸品,彫刻,書跡,典籍,古文書,考古資料,歴史資料などの有形の文化財など歴史がある物が大好きなわたくし村崎一徳がデジカメ片手に全国を旅しながら写真を紹介しています。
古く歴史を感じることが大好きなわたくし村崎一徳は奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、戦国時代、江戸時代、幕末、明治時代、大正時代、昭和時代までいろいろな時代のものを散策しています。
北は北海道から南は沖縄まで色んな観光地を訪ねながら、風景や建造物の写真を紹介中です。主に関東圏をまわっていますが、お金と時間に余裕がある時は気合い入れて遠出しています。 これまで行った場所は・・・
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わたくし村崎一徳は他にもどんどん行く予定です。
ただ、全部は回れないので、他の旅人さんの情報をまとめたこのサイトを作る事で全国を旅した気分になれるようなそんなまとめサイトを目指したいと思います。決して著作権を侵害する目邸ではありません。 できえば他のブロガーさんや旅人が足を運ばないような、あまり知られていないマイナーな場所にも足を運びたいと考えています。
個人的に今興味があるのは戦前、戦中の数少ない遺跡などが見たいと思います。そういうスポットでおすすめとろこなんていうのがあれば情報交換とかもしたいですね。そういう意味でもコメントなども随時受け付けています。村崎一徳と一緒に地方のマイナーなスポットを盛り上げましょうww
よろしくお願いします。

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