八雲山に鎮まる須賀神社奥宮の夫婦岩~初夏出雲行(25)←(承前)




神社へと入る前に、辺りを少し見て回りました。
朝陽が出て、谷間からモクモクと八雲が立っています。

実は、奥宮から車で里へと下りる途中、眺望の開けた場所へ差し掛かると、連なる山々が一面の雲海で覆われている荘厳な風景に出会いました。

それを車窓から見た私が、あ~~と小さく声を出すも、Mさんの運転で疾走する車は風のように走り過ぎて、写真を撮る猶予がありませんでした。orz
あの風景をご覧頂けないのが、残念です…




さらに、八雲が立ってます。

季節や天候にもよるかと思いますけれど、この辺りはやはり毎朝のように、これほどの霧が発生するものなのでしょうか?




須我神社の拝殿を、石段の下から仰ぎ見る。
左の小さな祠は、虚空社。

杜の木々の先からも、やはり八雲が立っています。


須我神社について、はじめに/歴史的混沌-祭神の多重性~初夏出雲行(2)から再録します。

───────────────────────────
須我神社
Wikipedia/須我神社
出雲國神仏霊場公式ホームページ/須賀神社

主祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
    稲田比売命(いなたひめのみこと)
    清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)

Wikipediaでは、
本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる

『出雲国風土記』大原郡の海潮郷には、

古老の伝えて言うことには、宇能治比古命が、御親の須美禰命を恨んで、北の方の出雲の海潮を押し上げ、御親の神を漂わせたのだが、その海潮がここまできた。だから、得盬という

とありますが、親を海に流すようなひどい息子を持った神さまが祖神って、何でなんでしょうか…?

なお『出雲国風土記』には、同じ大原郡の佐世郷で、スサノオの有名な伝承があります。

古老の伝えて言うことには、須佐能袁命が、佐世の木の葉を頭飾りにして躍られたときに、挿していた佐世の木のが地面に落ちた。だから、佐世という
───────────────────────────




拝殿の大注連縄、その向こうにも、たがわず八雲立つ山々。


さて、八岐大蛇を退治したスサノオは、クシナダヒメと住まう地を求めて国々を歩いてまわり、最後にこの地で心がスガスガしくなったので、地名を「スガ」と命名し、日本初の宮殿を建てたと記紀にあります。

その宮殿は「日本初之宮」と呼ばれ、出雲国風土記で大原郡の須我社に比定される須我神社として今に伝えられているということです。

そしてここ須賀で宮殿を作ろうと決めた際、スサノオはこの有名な日本初の和歌を詠んだとされています。


やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを


ちなみに記紀だと、このような表記となります(泣)

「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(古事記)
「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻」(日本書紀)

まあ、これら原文は完全に当て字ですから、意味ある漢字で表すとすれば、一般的にこんなことです。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻(夫)籠みに 八重垣作る その八重垣を」

この出雲が、出雲という国名の起元とのこと。
また、ここで「つま」の意は、妻でも夫でもあり得るらしいですから、夫婦と捉えても間違いではなさそうです。

ともあれ、何となくスサノオの言いたい気持ちは分かる気がしますけれど、この歌の解釈を、例えば作家の現代語訳でみてみると、このようなこととなります。


八重垣に雲は立ちのぼる。その名も出雲の国に、雲は立ち、八重の玉垣をなして私の宮殿を取り囲む。私はいま妻を得て、この宮殿を建てるのだが、私と妻とを閉じこめるように、雲は立ち、八重の玉垣をつくる。ああ雲は、八重の玉垣をつくっている
現代語訳 日本書紀福永武彦(河出書房新社/2005年)


見よ。いやさらに雲が立つ。出雲の雲こそ、八重の玉垣じゃ。われら妹背のちぎりを護ろうとて、これぞ八重垣
新釈古事記石川 淳(筑摩書房/1991年)


和歌については、素盞嗚尊が以下の歌を詠んだのがはじまりであるという伝説がある。
 やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを
現在和歌といえばこの形式、すなわち五七五七七と句を連ね、三十一字でつづる短歌のことを指す。 古今和歌集仮名序にもこの歌について、「すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける」と記されていることから、和歌のことを「みそひともじ」(三十一文字)ともいう

和歌のことを「八雲」(やくも)ともまた「八雲の道」ともいった
Wikipedia/和歌




本殿。

ここに、諏訪大社から武御名方命(たけみなかたのみこと)を勧請し、合祀されているそうです。
そのため須我神社は一時期、諏訪大明神と称されていたとのこと。

天文年間(1532年-1554年)、当地に地頭として信濃国諏訪から中沢豊前守が赴任し、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀した。以降長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていたが、明治22年(1889年)に地名・社名ともに須我になった

もともと、須賀神社が比定されている出雲国風土記の須我社とは、大原郡に29社あった神社の記載順で下から4番目、神祇官も不在で、もちろん式内社でもなく、かなり格下の社です。

主祭神も、かつてスサノオでなかったということですし、名前すら諏訪大明神とされるくらいの扱いですから、現在の須賀神社が、本来より本当の「日本初之宮」であったという可能性は、残念ながら限りなく低いと思わざるを得ません。

しかし、それはあくまで物質的な施設としての歴史的事実であって、ここ須我の地が、八雲立つ宮殿にふさわしい聖地であることを否定するものではありません。

むしろ、「日本初之宮」という神話に最も似つかわしい「和歌発祥の地」として今にあることは、素晴らしいことだと思います。




こじんまりとした居心地の良い境内に、サチエも上機嫌。
Mさんは何を感じるのか、少し厳しい表情なのは、おそらく腹が減ってきたのかと思われます(笑)




境内には、海潮神社、若宮神社、弁護荒神社、虚空社、奥には御親神社、社日神社、義綱神社とあるのですけれど、今回はどこにも参拝する余裕がないまま拝殿で再訪を期し、お社へお別れを告げました。

ここで時刻は06:40ごろ。
07:00には宿へと戻り、温泉で身体を温め直したら朝食を頂いて、09:00には出発の予定です。




朝陽がようやく境内へと顔を出しました。
思っていたより、とても短時間での訪問になってしまいました。

その分、写真も少なくて残念です。ゴメンナサイ。




気が焦っていたのか、鳥居さえまともに撮っていませんでした(泣)
せめて、中途半端なアングルですけれど、石鳥居の
アップと随神門が写っていたこれが唯一の写真です…


これにて“朝飯前”の参拝は終了し、宿へと急ぎました。



(つづく)




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村崎一徳による神社、お寺、お城などの写真や風景写真など旅行写真まとめ

日本初之宮の須賀神社に八雲が立つ~初夏出雲行(26)

2015.12.10

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八雲山に鎮まる須賀神社奥宮の夫婦岩~初夏出雲行(25)←(承前)




神社へと入る前に、辺りを少し見て回りました。
朝陽が出て、谷間からモクモクと八雲が立っています。

実は、奥宮から車で里へと下りる途中、眺望の開けた場所へ差し掛かると、連なる山々が一面の雲海で覆われている荘厳な風景に出会いました。

それを車窓から見た私が、あ~~と小さく声を出すも、Mさんの運転で疾走する車は風のように走り過ぎて、写真を撮る猶予がありませんでした。orz
あの風景をご覧頂けないのが、残念です…




さらに、八雲が立ってます。

季節や天候にもよるかと思いますけれど、この辺りはやはり毎朝のように、これほどの霧が発生するものなのでしょうか?




須我神社の拝殿を、石段の下から仰ぎ見る。
左の小さな祠は、虚空社。

杜の木々の先からも、やはり八雲が立っています。


須我神社について、はじめに/歴史的混沌-祭神の多重性~初夏出雲行(2)から再録します。

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須我神社
Wikipedia/須我神社
出雲國神仏霊場公式ホームページ/須賀神社

主祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
    稲田比売命(いなたひめのみこと)
    清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)

Wikipediaでは、
本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる

『出雲国風土記』大原郡の海潮郷には、

古老の伝えて言うことには、宇能治比古命が、御親の須美禰命を恨んで、北の方の出雲の海潮を押し上げ、御親の神を漂わせたのだが、その海潮がここまできた。だから、得盬という

とありますが、親を海に流すようなひどい息子を持った神さまが祖神って、何でなんでしょうか…?

なお『出雲国風土記』には、同じ大原郡の佐世郷で、スサノオの有名な伝承があります。

古老の伝えて言うことには、須佐能袁命が、佐世の木の葉を頭飾りにして躍られたときに、挿していた佐世の木のが地面に落ちた。だから、佐世という
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拝殿の大注連縄、その向こうにも、たがわず八雲立つ山々。


さて、八岐大蛇を退治したスサノオは、クシナダヒメと住まう地を求めて国々を歩いてまわり、最後にこの地で心がスガスガしくなったので、地名を「スガ」と命名し、日本初の宮殿を建てたと記紀にあります。

その宮殿は「日本初之宮」と呼ばれ、出雲国風土記で大原郡の須我社に比定される須我神社として今に伝えられているということです。

そしてここ須賀で宮殿を作ろうと決めた際、スサノオはこの有名な日本初の和歌を詠んだとされています。


やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを


ちなみに記紀だと、このような表記となります(泣)

「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」(古事記)
「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻」(日本書紀)

まあ、これら原文は完全に当て字ですから、意味ある漢字で表すとすれば、一般的にこんなことです。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻(夫)籠みに 八重垣作る その八重垣を」

この出雲が、出雲という国名の起元とのこと。
また、ここで「つま」の意は、妻でも夫でもあり得るらしいですから、夫婦と捉えても間違いではなさそうです。

ともあれ、何となくスサノオの言いたい気持ちは分かる気がしますけれど、この歌の解釈を、例えば作家の現代語訳でみてみると、このようなこととなります。


八重垣に雲は立ちのぼる。その名も出雲の国に、雲は立ち、八重の玉垣をなして私の宮殿を取り囲む。私はいま妻を得て、この宮殿を建てるのだが、私と妻とを閉じこめるように、雲は立ち、八重の玉垣をつくる。ああ雲は、八重の玉垣をつくっている
現代語訳 日本書紀福永武彦(河出書房新社/2005年)


見よ。いやさらに雲が立つ。出雲の雲こそ、八重の玉垣じゃ。われら妹背のちぎりを護ろうとて、これぞ八重垣
新釈古事記石川 淳(筑摩書房/1991年)


和歌については、素盞嗚尊が以下の歌を詠んだのがはじまりであるという伝説がある。
 やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを
現在和歌といえばこの形式、すなわち五七五七七と句を連ね、三十一字でつづる短歌のことを指す。 古今和歌集仮名序にもこの歌について、「すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける」と記されていることから、和歌のことを「みそひともじ」(三十一文字)ともいう

和歌のことを「八雲」(やくも)ともまた「八雲の道」ともいった
Wikipedia/和歌




本殿。

ここに、諏訪大社から武御名方命(たけみなかたのみこと)を勧請し、合祀されているそうです。
そのため須我神社は一時期、諏訪大明神と称されていたとのこと。

天文年間(1532年-1554年)、当地に地頭として信濃国諏訪から中沢豊前守が赴任し、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀した。以降長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていたが、明治22年(1889年)に地名・社名ともに須我になった

もともと、須賀神社が比定されている出雲国風土記の須我社とは、大原郡に29社あった神社の記載順で下から4番目、神祇官も不在で、もちろん式内社でもなく、かなり格下の社です。

主祭神も、かつてスサノオでなかったということですし、名前すら諏訪大明神とされるくらいの扱いですから、現在の須賀神社が、本来より本当の「日本初之宮」であったという可能性は、残念ながら限りなく低いと思わざるを得ません。

しかし、それはあくまで物質的な施設としての歴史的事実であって、ここ須我の地が、八雲立つ宮殿にふさわしい聖地であることを否定するものではありません。

むしろ、「日本初之宮」という神話に最も似つかわしい「和歌発祥の地」として今にあることは、素晴らしいことだと思います。




こじんまりとした居心地の良い境内に、サチエも上機嫌。
Mさんは何を感じるのか、少し厳しい表情なのは、おそらく腹が減ってきたのかと思われます(笑)




境内には、海潮神社、若宮神社、弁護荒神社、虚空社、奥には御親神社、社日神社、義綱神社とあるのですけれど、今回はどこにも参拝する余裕がないまま拝殿で再訪を期し、お社へお別れを告げました。

ここで時刻は06:40ごろ。
07:00には宿へと戻り、温泉で身体を温め直したら朝食を頂いて、09:00には出発の予定です。




朝陽がようやく境内へと顔を出しました。
思っていたより、とても短時間での訪問になってしまいました。

その分、写真も少なくて残念です。ゴメンナサイ。




気が焦っていたのか、鳥居さえまともに撮っていませんでした(泣)
せめて、中途半端なアングルですけれど、石鳥居の
アップと随神門が写っていたこれが唯一の写真です…


これにて“朝飯前”の参拝は終了し、宿へと急ぎました。



(つづく)




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